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エニックス御家騒動を振り返る [エッセイ]

2001年に起こったエニックス御家騒動。
エニックス出版部門の編集長クラスの編集者たちが、専属作家を含めエニックス系雑誌で執筆していた漫画家さんたちを大量に引き抜いて退社。新会社で新雑誌を立ち上げたというあの事件です。

当時様々な噂がネットで飛び交っていたものの、そこに確実性はありませんでした。
それがはっきりと表に出たのが2001年9月発売のガンガンWING。
「ナイトメア☆チルドレン」の最終回が掲載された号でした。
私はこの号を早売りで発売日の2日前に買い(奇しくもこの日は私の誕生日でした)、家で読んでいましたが、次々と終わっていく看板作品たちを見ながら、私は自分の信じていたものが音を立てて崩れていく、というのを体感しました。本当に、自分の背後で何かが崩れる音が聞こえました。
例えるなら、いつも通り会社に出勤していったサラリーマンが、いつも通り家に帰ってきてみると、家のあるべき場所が更地になっていたような。
10年付き添った、朝見送りをしてくれた奥さんが、帰ってきたら置手紙を残して家からいなくなっていたような。
信じたくはないのだけど、事実は目の前に並べられていて、受け入れざるを得ない状況がそこにありました。
たかが漫画くらいで、と思う人もいるかと思いますが、私にはそれくらいショックでした。

前述のように、御家騒動がはっきりする前にも、ネットなどでは様々な噂が飛び交っていました。
数ヶ月前からガンガンWINGで次々に連載が中断されたのは、エニックスの内部で何かが起こっているからだ、と。
でも、私はそれを全く信じていませんでした。
ネットで根も葉もない噂が立つのは日常茶飯事で、10年続いたエニックスの出版部門が今更騒動なんてありえない、と。こういうときこそ、ファンは信じてあげないとダメなんだ、と。
結局それが裏切られた風になってしまったことも、私のショックに拍車をかけていたのかもしれません。

それから数ヶ月。
見るも無残な形になっていくガンガンWING。
Gファンタジーは「最遊記」があるから大丈夫、ステンシルは「BUS GAMER」があるから大丈夫、と思っていたら、「最遊記」はゼロサムに移籍、「BUS GAMER」は連載中断。
Gファンタジーにはまだ「破天荒遊戯」があるし、ステンシルには「AQUA」があるから踏み止まれる、と思っていたら、「破天荒遊戯」はゼロサムに移籍、「AQUA」とタイトル変更してブレイドに移籍。
ガンガンでも「魔探偵ロキ」「スターオーシャン セカンドストーリー」など看板作品が次々と終わっていきます。
「たとえエニックスが倒産しても、私はずっとエニックスファンでいる。」
と日頃から公言していましたが、今が正にそのときじゃないかとすら思いました。
しばらくは何を信じていいのかわからない状態に陥っていました。

そして、ブレイドとゼロサムの創刊。
この頃になると何とか気持ちも持ち直してきて、あのときはあのとき、と割り切って新雑誌の連載作品を読み始めました。
ですが、当時は鳴り物入りで創刊した感じがしましたが、移籍した作家さんたちは、はっきり言ってエニックスの雑誌で描いていたときよりもつまらなくなっているものが多いと感じました。

そして、現在。
ステンシルは御家騒動直後に休刊。
ガンガンWINGは様々なテコ入れをしたり、アニメ化作品も出ましたが、あえなく休刊。
しかし、ガンガンは「鋼の錬金術師」、Gファンタジーは「黒執事」という奇跡を手に入れて継続。
「鋼の錬金術師」終了後のガンガンはいよいよ休刊の危機では、と思ったこともありましたが、今も何とか続いています。

ブレイドは創刊直後はそこそこよかったものの、休載作品が山のように出て次号予告に作品名を出せない事態に陥ったり、「まもって守護月天」のゴースト問題が起こったり、トラブル続き。メディアミックス作品を連発して多数の作品がアニメ化されたりもしましたが、成功作は「ARIA」くらいで他は鳴かず飛ばず。
様々な派生雑誌も出ましたが、現時点で紙媒体はEDENの1誌のみで、他はWEB掲載。
いろいろ手広くやってはみたものの、小さくまとまってしまった感じがします。
当時引き抜いた作家さんたちも、休載後全く見かけなくなってしまったり、活動を続けている方も他の出版社に行ってしまうことも多く、寂しい気持ちになります。

ゼロサムはブレイドほど多くの引き抜きをしたわけでもなく、姉妹誌はWEBに絞り、メディアミックス展開などを必要以上にやらなかった印象もあり、手堅く続いているように思います。
途中から講談社傘下に入ったことで、有望な作家さんを引き抜かれることもあれば、大型メディアミックスを手掛けることもあり、今後も手堅く続いていくように感じます。

結局この形に落ち着きましたが、あの御家騒動がなかったら……と今でも考えることはあります。
必ずしも御家騒動が起こらなければいい未来が待っていた、ということはないと思いますが、それでも考えてしまうのです。
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受験の話 [エッセイ]

人間誰しも「2度と経験したくないこと」というのがあると思いますが、私はその中の1つに「受験」というものがあります。
幼稚園受験から、小学、中学、高校、大学、はたまた有名進学塾に入るための受験というものまでありますが、今回は私が経験した高校、大学受験について語ります。

高校受験
大抵の人が初めて経験する受験というものがこれだと思います。実際私もそうでした。
中学3年になったとき、受験とはどれほど大変なものなのだろうか、と不安に思っていましたが、高校受験は公立高校ともなると受からせるための試験、試験問題も基本が出来ていれば解ける問題ばかりなので、さほど大変だった経験はありませんでした。
公立高校なら最高レベルでも、8~8.5割正解すれば合格なので、2割間違えられるんだ、くらいの勢いでした。
さすがに英語の成績が中学2年でかなりまずかったので塾に行かされましたが、そこで、
「高校受験は学校の先生に言われているほどきついものでもない」
と、塾の先生に教えられたので、受験に対する自信もつきました。
学校の先生は、自分の担任したクラスから高校浪人を出さないために、結構厳しいことを言ってきます。
塾で言うところの「このくらいの成績があれば受かる高校」でも、学校では「厳しいからちょっと考えろ」、くらいに言われました。受験雑誌で合格率50%くらいの偏差値で、私はレベルとしては丁度いいくらいだと思っています。
私のときは、調子がいいときの成績で合格率80%偏差値、悪いときで50%偏差値くらいでした。学校の先生は、調子の悪いときの成績を見て、考え直せと言われましたが、私はそのまま突き進んで合格して、選んだ高校は間違っていなかったと思っています。

また、中には「高校で楽して推薦で大学に行く」というために、自分の成績より1ランクか2ランク下の高校を選ぶ人もいますが、これは絶対に止めた方がいいです。
まず間違いなく、同級生と話が合いません。
ランクを下げて高校に行った人の話を聞きましたが、一様にそう言っていました。
また、周りに流されやすい人だと周りの人と同じだけ遊んでしまって、結果成績が落ちていい推薦を受けられなくなった、ということもあるようです。
あまりよい例えではないですが、大学の同級生で東大とか早稲田の人たちが大量にいる会社に就職した人がいるのですが、その人たちの間で最初に飲み会を開いたとき、
「マトリックス見た?」(もちろん映画のこと)
と尋ねたところ、
「マトリックスって行列のことだよね?」(大学で数学やると出てきます)
と聞き返されたそうです。そんな温度差を年がら年中感じることになります。


大学受験
高校受験とはっきり違うのは、落とすための試験であるこということです。
私は大学の受験勉強は高校3年に入ってから始めましたが、遅すぎました。早く始めておくのに越したことはありません。
そこそこ名のある大学に行こうと思ったら、基本だけではまずダメで、少なからず予備校か進学率の高い塾に行くとかしないと合格できるものではありません。
少なくとも私程度の頭では、独学ではまずダメだと感じました。
独学で名のある大学に行ける人は、才能そのものが私などとは雲泥の差がある、と高校のときに感じました。少なくとも、親が学校の先生だったり有名大学出ていたり、独学で大学に行った人はそういった要素を持っていました。
また、高校受験と明らかに違ったのは、周りからのプレッシャーでした。
高校は受からせるための受験で、どこかしらに入れる見込みはあるものですが、大学受験には浪人という選択肢も出てきます。
塾からも学校からも「受かれよプレッシャー」、親からは、「浪人したらいくら金かかると思ってんだプレッシャー」、高校のときとは比べ物になりませんでした。
浪人しても親はお金を出してくれたと思いますが、受験になった時のプレッシャーは現役以上になっていたと思います。
私は、本命前日に38度の熱を出すものの、近所の知り合いの開業医さんに注射を打って熱を下げてもらって助けられ、運も味方して直前に勉強していた英語の問題が3問出るというラッキーさで何とか現役合格できましたが、受かったのは奇跡に近かったと思っています。

このときのことがトラウマになっているのか、大学に合格してからも社会人になってからも、結婚しても、娘を産んでからも、冬の寒い時期になると「もうすぐ大学受験なのに何も勉強していないし知識が全くない、どうしよう。」という夢を見ていました。
娘の中学受験を手伝うようになってやっと夢を見なくなりましたが、受験が終わればまた夢を見始めるような気がします。
第一志望に合格しても、トラウマになることはあるのです。
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母の逸話 [エッセイ]

HPでもどこででも家族をネタにするとき、母親ネタが1番多いように感じます。
事実、我が家に関してもネタになりそうな出来事のほとんどは母親に関することばかりです。
ということで、今回は母に関する逸話を脚色一切なしのノンフィクションでお送りします。

結婚と出産の話
私の母親、私が結婚する前、それこそ生涯結婚しないと言っていた頃からずっと、どうしても私に子供を産んで欲しい、という願望を持っていました。
高校生くらいから私が、
「結婚しない、子供も産まない。」
と宣言していたときも、
「産んでくれればお母さんが育てるから。それにあなたの子供なら絶対に暴れたり泣き喚いたりしないから大丈夫。」
とまで言っていました。
実際、私が育てやすかったのは事実のようで、私もあれが欲しいこれが欲しい、とお店で泣き叫んだり、親のそばを離れてうろちょろしたりした記憶はありませんでした。
実際娘を生んでみたら育てやすかったことは確かで、今となっては気持ちもわからなくはない、くらいには思うようになりましたが、私自身孫に会いたいかと言われれば特にそこまでの強い願望はなく、生まれても生まれなくてもそれはそれで、くらいの感覚です。

話がそれましたが、事あるごとに子供を産め、と言うので、あるときこんな質問をしてみました。
私:「このまま独身でいるのと、どうしようもない男に引っかかって出戻りで帰ってくるの、どっちがいい?」
母:「そうだねぇ……別れて子供を連れて帰ってくるのがベストだね。」

またあるとき、もっと酷いシチュエーションを考えて質問してみました。
私:「このまま独身でいるのと、不倫の末に子連れで帰ってくるのとどっちがいい?」
母:「ああ、子供がいた方がいいね。」(即答)

なんて親だ、と思いつつ、こんな質問もしてみました。
私:「もし私が結婚したいって言ったら、お見合い写真の5~6枚も持ってくる?」
母:「それはしないね。お母さんがよく知っている人だったら紹介するけど、よく知りもしない人を紹介なんて出来ないよ。」
こんなところは妙に冷静だったりしたので、一安心しました。

虫の話
私の母はとにかく虫に強いです。どんな虫を見ても怯えたことがありません。
ゴキブリをサンダルで踏み潰すところから始まり、15センチはあろうかというムカデは裁ちバサミで1センチに切り刻みます。カメムシは潰すと臭くなるので専用の瓶が存在し、カメムシを発見するとその瓶に入れて蓋をする、ということを繰り返すうちに瓶の中にはカメムシが数十匹になり、蟲毒が完成するのではないかと思ったこともありました。
他にもアブを素手で捕まえて羽をむしって逃がしますし、クモは地面に落として踏み潰します。
私が蛾や蝶を見て逃げ惑うことなどどこ吹く風、所詮虫だから、で片付けてしまいます。
そういった環境の中にいたからか、私も蛾や蝶、巨大なクモ以外は結構虫を見るたびに殺すのですが、それを友人に話したら驚かれたことがあります。
風呂場に紛れ込んだコオロギをシャンプーで殺したり(シャンプーの泡の中にコオロギ入れると死にます)、クモは見かけたらティッシュに包んでつぶしたり、とか、とりあえず虫は殺すよね、と話したら引かれました。

実家のパワーバランス
母は役場に勤める地方公務員でした。
父は家で農業だったので、昼家にいるのは父で、外に働きに出るのは母。収入も、母はサラリーマンと同じくらいの収入、父はパートに出ているのよりも安いんじゃないか、くらいの収入。実家は一般的な家庭とはいろいろなものが真逆でした。
元々父は養蚕をしていたのですが、結婚当初は父の方が収入が多かったそうです。でも、母と結婚して間もなく絹の値段が下がり始め、そこからはずっと落ちる一方。安い中国産の絹に押されっぱなし。
母が働かないと家計を支えられなくなってしまったそうです。
で、母は外で働いている+家事もやらなければならなかったということで、自分の時間はほとんどなし。
父も祖父母も昔の人ですから、家事は女がするものってことで、家事全般もこなしていました。
私などの子守は祖母が手伝っていたのですが、掃除・洗濯・料理はほぼ母が行っていました。
それについて父や祖父母が文句をつける場面は見たことがなく、ただ言いたいことを言えない雰囲気はずっとありました。
昔の家だから男性優位が基本だけど、家計を支えているのは母で頭が上がらない部分がある、ということで、微妙なパワーバランスで実家は成り立っていたようです。

祖父母が亡くなってからは、目の上のたんこぶがなくなった感じで実家を大々的にリフォームし、祖父母の手前あまり行けなかった旅行にも行き始め、退職後はかなり海外旅行もしていました。
頻繁に海外旅行に行くのを父があまりよくないと思っていることも分かったうえでいろいろ行っていたので、その辺りもまた収入があることの優位性で押し切っていたというのもあり、現在でもまだ微妙なパワーバランスは続いているようです。

母の結婚指輪
あまり豊かではなかった時代とはいえ、結婚指輪は存在します。
父も母に結婚指輪を贈ったとのことですが、その指輪は非常に安っぽいものだったらしいです。
一応プラチナだったそうなのですが、細くて薄くて日々身につけるにしてはあまりにも……なものだったとのこと。
それで母がどうしたのかというと、宝石店に依頼して手持ちの別のプラチナの指輪と混ぜて量を増やして再鋳造。
父の気持ちなど全く考えていない勢い。
でも、母はこれで身につけるようになったとのことなので、よかったと言えなくもないです。

母の婚約指輪
やはり存在した婚約指輪。
一応プラチナ・ダイヤの指輪だったらしいのですが、ダイヤが小さくてやはり見た目が安っぽい。
父にしてはそれなりに無理してお金を出しているはずなのですが、母にとってはダメだったようで。
とても身につけられない、とタンスの奥にしまい込んでずっと身に付けていないそうです。
そして、ある日私に向かって、
「どうせ付けないからあげるよ。サイズ直しして使えばいいでしょ?」
……いいのか、娘に自分の婚約指輪渡しても。

母と真珠のネックレス
冠婚葬祭に使えて、1本あるととても便利な真珠のネックレス。
母は当時の月収の4~5倍はしたという真珠のネックレスを思い切って買ったそうです。
その事情を知らない父、貴金属が好きだという母に真珠のネックレスをプレゼントしました。
でも、それはちゃんとした宝石店ではなくてホテルで買ったもので、それなりに高いものだったらしいのですが、母が買った真珠に比べたらそれはそれは安っぽいもの。
母がそれを身につけることはやはりなく、先日私の手元にやってきました。
結局母は父がプレゼントしてくれた貴金属は何一つ気に入ることはなかったようです。

母の趣味
母は多趣味というほどではないですが、いくつか趣味を持っています。
昔からなのは、裁縫、旅行。退職してから追加されたのが農業。
旅行以外はとにかく実益があるものでないと趣味にしません。
凝り性なところは私に遺伝していると思うのですが、裁縫もお弁当袋を作り始めたら10も20も作って近所に配り回り、セーターやベストも何10着と機械編みでガシガシ編んで家族に着せて回る、という具合に同じものを量産します。
まぁ、それだけ裁縫をしているだけあって手先はかなり器用な母。
最近では使わない着物をバッグに作り替えたり、昔の服も着られるように何だかんだで加工しています。
とにかくそれが楽しくて仕方ないようです。
私の娘の幼稚園バッグやら小学校のバッグを試しに頼んでみたら、二つ返事で作ってくれました。一応生地代は私が負担しましたが、作業代など特に請求されることもなく、頼んでから1週間くらいで完成していました。

また、退職後始めた農業。
実家は田舎の本家なので、農地は山盛りあります。肥沃な土地から痩せた土地までいろいろあるので、作りたいと思った作物は大体カバーできます。
売り物ではないので、作物の形もあまり気にせず、苗のときだけ農薬で消毒して(苗のときはどうしても苗自体が弱いので、農薬使わないと虫に全滅させられる)、後は無農薬で栽培。
形は変なのが多いですが、食べられればいいというのが母の考え。
それで、いろいろと種を買ってきては育てて収穫して……現在では動物性たんぱく質しか買ってないらしいです。
作りすぎた野菜は近所に配ったり直売所で売っていたり。近所に配るとお礼として油とか鰹節とかをもらうらしく、ほぼ自給自足の生活が完成。
秋に実家に帰ったら、大豆1000株栽培して味噌を作ると言っていて、規模も大きくなりつつありました。
その大豆でみそを作ったりもしていましたし、かなり手広くいろいろやっていました。
農業はあくまで趣味のため、楽しくて仕方ないらしいです。
それでとれた野菜を定期的に郵送してきたり、帰省の際に持ち帰らせようとするのはどうにかしてほしい、と思うのですが、いらないといっても押し付けてくるので、今では無条件でもらって夫の実家に押し付けるようになりました。

母と宗教
私が生まれる前の話になりますが、我が家である不幸なことがありました。
それ自体母はあまり不幸だと思っていなかったというか、すぐ立ち直ったらしいのですが、周りからみると不幸のどん底にいるように見えたようです。
そうなると登場してくるのが宗教。
どこからか我が家の不幸を聞きつけて、
「そういう不幸なことが起こったのは○○に入信していないからだ。」
とか、
「○○に入信すればそんな不幸はなくなる。」
というのが入れ替わり立ち替わり、嫌というほど来たらしいです。
そんな母の伝家の宝刀は、
「うちは仏教ですから、必要ありません。それに、うちは檀家総代なんです。」
という言葉。これで大体引くそうです。
無宗教です、と言うと逆に「じゃあ入信して。」と言われるそうで、だったらもう特定の宗教信じてるよって言った方が早いみたいです。
まぁ、そういう母は神様とか全く信じていなくて、檀家総代というのは本当だったりするものの(これもこれでやる人いないから引き受けただけ)、神様に祈っている時間があるなら働いたり趣味の時間に使う、というのが母の考えだったようです。
考えてみれば、宗教って実益という言葉からもっとも遠いようなものですし。
ただ、宗教と同じように名前の画数とか風水とかも母は全く信じていないのですが、親戚に詳しい人がいて、もしそれを無視して勝手にやって何か不幸があったら、
「あの時話を聞いてちゃんとやっていれば……」
と言われてしまうのが嫌で、一応話は聞くようにしているようです。
実家をリフォームするときも、一応見てもらって風水的に大丈夫なようにしてリフォームしたそうです。
信じてはいないけど、無視すると後々面倒だから信じている風を装うそうです。
某宗教団体から選挙の度に、
「次の選挙は〇〇さんに入れてください。」
と言われた時も、
「はいはい、〇〇さんに入れますね~」
と言っておいて全く別の人に投票するらしいですし。
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遺伝について考える [エッセイ]

「カエルの子はカエル」という言葉があるように、育った環境以上に遺伝で決まる個性というものがかなり多いと感じます。容姿、体型に関しては言うまでもなく、頭のよさや根本にある性質みたいなものは少なからず親に似るのではないか、と。
容姿に関してはよく「女の子は父親と、男の子は母親と似るといい」と言われます。どうしてそう言われるのかはわかりませんが、とりあえず私は父親とかなり顔の作りが似てます。
実家の地区内で全く面識のない人と会ったとき、
「あなた○○さんの子でしょう?」
と何度言われたことか。こんなとき、血のつながりというものをよく考えさせられます。
ただ、娘は私とよく似ていると感じています。

頭のよさに関しては、ほぼ完全に遺伝だと思います。
「頭がいい」ということと「勉強が出来る」ことをイコールで考えたとき、大抵頭のいい人の親も頭がいいです。
現役でそこそこ名の知れた大学に合格出来るような人は、大抵中学までは学校の授業は聞いただけで頭に入って、公立の小中学校であればほぼ学校の授業だけで成績はトップクラスだったと思います。自慢するわけではないですが、事実私がそうでした。先天的に覚える力とか考える力が発達した状態にあるのだと思います。

高校のときも学校の先生の娘だという子がかなり多かったですし、私の両親は高卒ですが、昔の成績表見せてもらったらそれなりの成績を収めていました。
父は地元トップの進学校を志望したものの(実際合格できる実力はあったらしい)、家業が農業だったために両親(私から見たら祖父母)から農業高校に行くように言われて泣く泣く諦めたと言っていました。
母は通える範囲にある高校が2つしかなくて、学校で数名だけ行くトップ進学校かその他のほとんどの生徒が行く地元の普通レベルの高校しかないとなったときに、普通レベルの高校に進学していました。しかし、成績表を見せてもらったら順位が1桁だったので、かなりできる方だったようです。
2人とも、時代が違えばそこそこの有名大学を出るくらいの力はあったのだと思います。

というように、育った環境以上に遺伝で決まってしまう性質というものもありますが、それ以上に血のつながりにこだわりすぎているのではないかと思うこともよくあります。
よくテレビ番組で「生き別れになった母親に会いたい」という企画がありますが、こういった母親捜しを依頼する人は自分が育った環境が悪くて、その逃げ道として生みの親に頼っていることが多いように感じます。
それが決して悪いと言っているわけではありませんが、断腸の思いで別れた場合もあればそうでない場合もあるわけで、後者のことを考えるとあえて会わずに今の環境のままでいればいいのに、とは思います。
また、「せっかく親からもらったものを」という理由で整形手術に反対する人というのも、私にはわかりません。
本人が容姿にコンプレックスを持っていて、それが整形でどうにかなるものならそれでいいと思います。少なくともそれが解決手段であるわけですから。
結論としては、血のつながりというものは大切ではあるけれど、それにこだわる必要はない、と私は考えています。
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食べ物好き嫌い [エッセイ]

私はそれほど自分が食べ物の好き嫌いが激しとは思っていないのですが、よくよく考えると”これは食べられない”というのが結構あることに気付きました。
今回はそれを紹介します。

まずは、好きな食べ物から。

チョコレート
食べ物で何が好きか、と聞かれたらまずこれを答えます。
ただ、チョコそのものではなくてチョコをベースにした食べ物、例えばチョコレートケーキ、チョコチップクッキー、チョコレートアイスなどの方が好きです。
また、ゴディバのような海外産の高級チョコレートよりも、明治の板チョコのような、日本人向けに作られた日本のチョコレートの方が好きです。
具体的な製品名で何が好きと聞かれたら、アルフォートと明治の板チョコ、と答えます。

エビ
伊勢エビでもサクラエビでも、エビと名のつくものなら大好きです。
お寿司だったらエビは絶対欠かせません。
海産物の中ではダントツトップです。でも、ちょっと高いお店に入ったときメインに肉料理か魚料理(エビ)か、と聞かれたら肉を取ってしまいます(笑)
ちなみに、肉の中だったら鶏肉が好きです。あっさりしたからあげなどは特に。
小さい頃牛肉はほとんど食べさせてもらえなかったので(笑)、食べ慣れていないせいか霜降り牛のステーキと言われても心がときめきません。

うずら豆を煮たもの
母が作る料理の中で1番好きなものです。延々と食べていられます。
あずきが大きくなったような豆である「うずら豆」を一晩水につけて渋抜きして、圧力釜で煮て渋抜きをして、再度煮て砂糖で味付けするだけなのですが、これがすごくおいしいのです。
お店でお惣菜として売っていたりもしますが、それとは比べ物にならないくらいおいしいと思います。

じゃがりこ
しょっぱい系のお菓子の中ではこれが1番好きです。
定番のサラダ味が1番好きですが、期間限定品は発売されるたびに一通り買って食べてみる、くらいはしています。期間限定品だった塩とごま油がレギュラー化したときは単純にうれしかったです。これが期間限定品の中で格段においしかったので。

じゃがいも
昔は男爵とメークインくらいしか品種がなかったものがここ最近いろんな品種が出てきて、食べ比べているうちにじゃがいも好きに目覚めました。
単純に蒸かして作ったじゃがバター、ジャーマンポテト、豚ひき肉と合わせてタネを作ったコロッケ、辺りを毎週ループさせて食べていますが、家族からはじゃがバター以外不評です。
インカのめざめはゆでて塩をかけて食べるのが最高においしいと思っています。


さて、今度は嫌いな食べ物です。

煮た大根
おでんの大根、ふろふき大根、ぶり大根、とにかく大根は煮たら食べられません。
大根おろしとか大根サラダは好きなのですが、煮てしまうと食感が合わなくて食べられないのです。
これが食べられないと言うと「人生損してる」と言われます。
何度か挑戦したこともありますが、ことごとくダメでした。

コーヒーゼリー以外のゼリー
これもこれで食感が合わなくて食べられません。あと、味もダメです。
コーヒーゼリーはシロップとミルクが入るので食べられます。
凍らせたら何とか食べられますが、そこまでして食べたいとも思いません。
仕事の研修中、お昼でたまに出てくるデザートがレモンゼリーだったときは悲しかったです。
もちろん、食べられなくて同期の女の子にあげてしまいました。

牡蠣
完全な食わず嫌いです。
見た目がグロテスクで口に入れられません。
他の貝類は大丈夫なのですが、これだけはダメです。
オイスターソースは好きなので、食べたら食べたできっとおいしいのだとは思いますが、あえて無理して食べる必要もないかと思って日々過ごしています。

ホワイトチョコ
チョコが好きなのに、ホワイトチョコが食べられません。普通のチョコとくっついているものや、白い恋人なら食べられますが、単体では無理です。
あまりに甘くてダメ、といったところでしょうか。
ルビーチョコもあまり好きにはなれませんでした。

ミルクティー
飲めないことはないのですが、細い缶ジュースでも1本飲み切ったことがありません。
キンキンに冷やした牛乳は大好きなのに、ホットミルクは飲めない、というのが影響しているのかもしれません。これも甘すぎてダメです。
紅茶はやっぱりストレートかレモンですが、砂糖が入っていない紅茶もそれはそれであまり好きではありません。ハーブティーは飲んで数時間後に気持ち悪くなったことがあって(ハーブティー原因かどうかは不明)、それ以来同じことが起こるのが怖くて飲んでいません。

銀杏
どんなに調理方法を変えても食べられないものです。
小学生の頃、これが大好きだという子の隣で1粒食べたとき、世の中こんなにまずいものがあったものかと思いました。茶碗蒸に入っていたら必ず残します。
茶碗蒸は好きですけど、どうして茶碗蒸に銀杏なんだ、とよく思います。

甘い抹茶のお菓子
抹茶アイス、抹茶チョコ、抹茶クッキーなど、とにかく甘い抹茶のお菓子が食べられません。
普通にお茶としての苦い抹茶を飲むことはできるので、多分、抹茶は苦いものという先入観から、甘い抹茶系お菓子を食べると、抹茶は苦いものなのになぜ甘いのか?と脳がバグるからではないかと思っています。

探せばもっとあるかもしれませんが、代表的なものはこれくらいです。
総合すると、程よい甘さのものが好きで、甘すぎるものと食感が合わないものが食べられない、ということでしょうか。
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卒業研究 [エッセイ]

大学を卒業するために、絶対避けては通れないのが卒業研究。
一般的には「卒業論文(卒論)」と言われていますが、理系の場合は実験をしたりコンピュータでシミュレートしたりして、それを研究して論文を書くので「卒業研究(卒研)」と言われます。

文系の論文は100p以上でなければならない、ということもあるらしいですが、理系の場合は(特に数学の場合)論文自体は30pくらい、プログラムを付けても60pくらいです。その分計算が大変ということで。
この卒研は1年間かけて行いますが、実際に卒研のための計算が始まるのは学科やゼミによって違います。
理系の中でも物理や化学の理科系になると、就職活動も忙しい4月5月から実験を始めてかなり忙しいらしいのですが、数学は本格的に計算を始めるのが11月頃だったりします。
しかも、ゼミによっては年が明けてからテーマが決った、というところですらありました。

では、それまで何をしていたのかというと、ゼミで指定した英語で書かれた論文(教科書)を訳して読んで、というのを繰り返していました。はっきり言ってしまえば、それをやっている頃は非常に楽した(爆)
そもそも数学で新しい定理みたいなものを大学生程度が考えられるわけがないので、数学の卒研では今まで議論されてきた問題を改めて考えてみたり、ある定理を実際のデータに当てはめて本当に使えるかを考えたり、ということをしていました。
その他には、教科書にある問題で少し手間のかかるものをやってみたり、ある話題について書かれた論文をいくつも集めて総合して検討してみたり、ということもしていました。
私が卒業した後、シェークスピアが書いた物語で使われた単語をランキングしてそれを統計学的に考える、というテーマがすごく人気があったというのを聞いて、何それすごくやってみたい、と思ったこともありました。

それはそうと、私がやっていたのは「Cauchy分布に対する局所最強力検定」という研究でした。
どうしてこういうテーマになったのかというと、「局所最強力検定」が教科書の中で出てきたのですが、これはある条件の下でしか使えない検定だったので、だったらその条件をなくして検定したらどうなるのか、というのを試してみたかったからです……などと偉そうなことを書いていますが、全てゼミの先生が考えてくれたことなので、実のところ私はほとんど何も考えていませんでした。
論文の本題部分にしても、全部先生が用意してくれて、私がやった事と言えば先生が計算してくれた結果と同じになるようにプログラムを組んだり(これもほとんど先生に聞きましたが)、定義を調べて例題を計算したり、というくらいでした。
それだけ先生に頼っていたせいで、1月半ばに、
「これもやってみたらどうでしょう。」
と先生に言われたときは素直に従うしかありませんでした。
これでやることが倍くらいに増えたので、発表会の前日までハードスケジュールになって、終わり間際は自宅滞在時間が7時間になって、学校に住んでいるんじゃないか、という生活になっていました。
それはゼミの中で他のテーマを扱っている人たちも同じで、みんなで死にそうになってやっていました。
また、他のゼミでも今年はかなり切羽詰っていた、と発表会が終わった後で先生方が言っていました。
もっと早くに始めればいいのですが、毎年のようにみんな発表間際にならないと本腰を入れないらしく、今年はそれが更に酷かった、ということでしょうか。

さて、思いっきり先生に頼っていて自分の研究内容をどれだけ私が理解していたのかと言うと、発表の前日にやっと全てを理解した、というレベルでした。
研究の前半と後半の繋がりと、どうしてそういう計算結果が必要になるのか、っていうのがわからないまま計算していたんですね、これが。
卒研が終わってみて、もう1度卒研やりたいな、とは思いませんでした(笑)

追い込みの辛さは半端じゃなかったので、受験をもう1度やりたくないのと同じ気持ちでした。
それで、やっぱり大学院には進まなくてよかったな、とも思いました。
発表の前日に研究の内容を理解したということからも、既に私は数学の限界に達していたのだと思います。
ただ、卒研を通して先生が紹介してくれた論文をいくつか読んで、数学の定理も出尽くしていると思っていたのに、今でもまだまだ新しい定理を考える人がいて、数学もまだ進歩しているんだな、と感じました。
それは卒研をやって初めて気づいたので、それがわかったのは卒研をやってよかったと思えることでした。
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しいたけの話 [エッセイ]

健康にいいと言われつつ、嫌いな人が結構多いしいたけ。
私の実家はしいたけ農家なので、しいたけを嫌いな人が増えると困ってしまう立場にあります。
私は小さい頃から食べ慣れてはいますが、決して好きというわけではないので、嫌いな人の気持ちがわからなくもないところがまた悲しかったりします。

そんなしいたけがどうやって栽培されているのかというと、方法としては2種類あります。
1つは菌床栽培で、最近はこちらが主流。しいたけ菌が詰まったおがくずの塊に水を与えると生えてくる、というもの。通販でも気軽に買えるようになっています。
もう1つは原木栽培で、実家が行っていたのはこちら。昔からある手法で、しいたけ菌を木に植え付けてしいたけを生えさせる、というもの。
おそらく味にそこまで違いはないと思いますが、値段としては原木栽培の方が上。原木栽培だとしいたけに木の香りも加わるので、それの良し悪しもあります。
見分け方は簡単で、しいたけの軸の先に木くずがついているなら原木栽培、先がカットしてあったり木くずがついていなかったなら菌床栽培です。また、菌床栽培は色が比較的白っぽく、原木栽培なら濃いめの茶色です。そもそも原木栽培だと「原木栽培」と表記されていることが多いです。ブランドみたいなもののでしょうか。
東京だと原木栽培しいたけはほぼ見かけません。

ここでは原木栽培について話します。
まず、しいたけを栽培する流れは、以下のようになっています。

①しいたけ栽培に向いている楢の木を切り倒して手ごろな大きさにしておく。(直径10~20センチ、長さ1.5メートルくらい)
②それにドリルで穴を空けて種駒というしいたけ菌の塊を植え付けて、しいたけ菌が回るのを待つ。
③半年くらいしてしいたけ菌が回ったところで、水に数日間浸けておく。(そうやって木に刺激を与える)
④水から出して温室の中に置いておくと、しいたけがびょこびょこ出てくる。
⑤適当な大きさになったら採っていくが、しいたけは断続的に生えてくるので、結構頻繁に採らないといけない。夏場はしいたけの生長も早いため、1日に3回くらい採らないといけないこともある。
⑥その後、何度となく浸水と採取を繰り返し、最終的にしいたけが生えなくなると、その木はお風呂の薪になる、という100%リサイクルで循環していく。

いまさらながらに思うと、結構エコだったのだな、と。

私も小さい頃からよく手伝わされました。
ただ、種駒植え、しいたけ採集、出荷用の袋のホチキス止め、箱詰め、全てにバイト代設定をしていて、手伝ったら手伝っただけお小遣いをもらえるようにしていました。

また、しいたけにも他の野菜と同じように等級があって、いいものから順に秀M、A、B、C、LS、Dとなっています。ただ、年度ごとに基準が見直されることもままあるので、現在は違うかもしれません。私が手伝っていた間でも、何度か変更がありました。

最上位品の秀Мはカサの直径が5cm以上でカサの裏の膜が切れていないもの、というかなりきつい条件で100gの袋に5個以上詰めて出荷されますが(実際5個詰めると200gを超える)、Dになるとどんなに変な形だろうが大きさだろうが足がもげていようが300gの袋に詰めて出荷できます。
その等級でスーパーに売られるものを見てみると、地元スーパーで見た限りでは、よくてC、酷いところだとDを100gの袋に詰めて売っている場所もありました。多分、農家が市場を通さないで直接お店に卸しているのでしょうが、消費者が知らないと思って結構悪どいことしているな、と思うこともあります。
ちなみに、秀MやAのようないいしいたけは料亭などに行ってしまうらしく、一般のスーパーでは見たことがありません。値段もわりと高いので、そんなのを普通のスーパーに置いても売れないから、という理由もあると思います。

とりあえず、悪いしいたけをつかまないためには必ずカサの裏を見て下さい。
赤い斑点があったら腐っているので買ってはいけません。今はだいぶ減りましたが、こんなしいたけも結構スーパーで平気で売られているのが、健全なしいたけ農家としては悲しいところです。
よりよいしいたけはカサが丸くなっていてカサの裏に膜があるものですが、そういうしいたけはそれなりに高いと思います。
なお、菌床栽培はいいしいたけが作りやすいので、原木栽培のBくらいのものが普通にスーパーで売っていたりします。

さて、ではテレビに出ているしいたけはどんなものがあるだろう、と注意深く見ていると、料理番組に並んでいるしいたけは大抵秀Mです。いいしいたけ使ってるなぁ、と思います。やはり、テレビだからでしょう。
ただし、子供たちが料理を作る番組で、たまに子供たちで材料を調達して料理を作る、という場合がありますが、そんなとき、こどもたちはしいたけ農家に行って巨大しいたけを見つけて、珍しいからと料理に使っているシーンをよく見かけます。しかし、実はその巨大しいたけは珍しいわけでも何でもなく、単なる規格外のしいたけなので(よって等級はD)、悪く言えば農家にとってはいい厄介払いのようなもので、ああせっかくただでもらえるのに、とよく思ったものでした。
他の野菜がそうであるように、放っておけばしいたけも際限なく大きくなります。カサの裏にある膜が切れなければいくらでも大きくなっていいのですが、ある程度大きくなると膜もなくなるので、そうなったらもう単なる規格外となるため、普通はそうなる前に採ってしまいます。そのせいで珍しがられるのですが。

しかしながら、同じ番組で今度は大人が材料調達のためにしいたけ農家を訪れてもらっていたしいたけは、秀MやAばかりで、この人はわかっているな、と思ったりもしました。

最後に、これまでいろいろと等級にこだわった話をしてきましたが、結局栄養価にしても味にしても、どの等級のものを食べても大差はありません(笑)しいたけは本っ当に見た目だけです。原木の方が香りがいいとか、食べる前に日光に当てるとビタミンが増えるとかはありますが、基本的には同じです。
それに、私は肉厚の秀Mより、ペラペラのLSの方がおいしいと思っています。

ただ、実家では余った規格外のしいたけをめんつゆにこれほどまでか、という量を突っ込んでいて、それに豚肉とねぎを入れて完成させていたので、いまさら思うとそれがすごくおいしかったです。
それが当たり前だった当時、我が家のめんつゆは鰹節も煮干しも昆布も入れてないから出汁があまり出ていないのだろうなぁ、市販の昆布つゆとかの方がきっとおいしいのだろうなぁ、と思っていざ一人暮らしになって市販のめんつゆを買ったらおいしくなさ過ぎてビックリしました。
しいたけと豚肉でものすごい出汁が出ていたというのを後々知りました。

また、しいたけ農家における干ししいたけは、規格外の余ったしいたけを長期保存するためのいわば廃品処理みたいなもの、という感覚だったので、市販の干ししいたけの値段が高くてかなりビックリしたりもしました。基本的に売るための干ししいたけは作っていなかったいうのもあり。

そんな感じなので、しいたけは実家に行けばあるので、未だ市販品を買ったことはありません。
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就職活動日記~後期・合格編~ [エッセイ]

教育実習も終わって全て一からやり直しになった就職活動。
それまでは家に来たダイレクトメールに返事を出す形で会社説明会に予約をすることがほとんどでしたが、そのダイレクトメールも届かなくなりました。それなので、教育実習が終わってからは学校の就職課で求人票を探して会社説明会に予約するようになりましたし、インターネットで説明会を見つけて予約することも積極的に始めました。
また、この際推薦も利用しよう、と思ってまだ募集している推薦枠があるかどうかも調べました。
推薦というのは学科推薦のことで、理系学科には結構多く届きます。
推薦枠が2~3名くらいという指定があると、1回会社訪問すれば合格してしまうことが多いのですが、あくまで会社を受験するには推薦が必要だ、という推薦もあります。文系学科にはどうやら推薦枠2~3名ですぐに合格出来るという推薦は届かないらしいので、これは理系学科の特権と言っていいのかも知れません。

私はすでに合格出来たらどこでもいい、という考えにまで至っていたので、すぐに合格出来るような推薦を探しました。
しかし、私が推薦を受けようと思ったときには、すでにすぐ合格出来る推薦は全て締め切りを過ぎていて、受験するには推薦が必要だ、という会社が1つ残っているだけでした。(この時点で6月半ばくらい)
これは受けようかどうか迷いましたが、普通に受験するより推薦があった方がまだ受かる確率は高いだろう、と思ってその推薦を受けることにしました。
それですら既に締め切りが近かったので、推薦を申し込んだ2日後には推薦状を持って会社説明会に行くことになりました。
学科の主任教授に、明日までに推薦状を書いてください、と頼みに行ったときほど緊張したことはなかったですが、嫌な顔一つされず書いてもらえました。

推薦状があるせいか、説明会参加後、次の週には筆記試験と面接を受けることになりました。
筆記試験には英語も出てきて苦労しましたが、国語や数学、コンピュータ用語の問題はわりとできましたし、適性検査はほぼ完璧だったと思うので、それほど失敗することなく通り過ぎました。
同じ日の午後には面接もあって、その直前には面接用の質問用紙が配られ、それに30分でいろいろと記入する作業もしました。
また、それを書く前に採用担当者の人が、
「最近の学生はあまり喋らないので、推薦状には明るい学生だと書かれていても実際に採用出来ないことがあります。面接のときは喋りすぎるくらいに喋った方がいいです。それに、質問用紙にもいろいろ書いてもらわないと、こちらとしても何を聞けばいいのかわからなくなります。」
と言っていたので、とにかくいっぱい書いていっぱい喋ろう、と心に決めていました。

質問用紙で1番困ったのは、「今一番気になるニュースについて書きなさい。」という項目でした。
当時はコソボ情勢がニュースでよく取り上げられていたりしましたが、普段から私はニュースもじっくり見ていないので、世界情勢を書いても絶対に墓穴を掘ると思って、その場所には「PS2とDCのシェア争奪戦と今後のゲーム業界の動き」について書いてしまいました(実話)。つまるところ、それしかまともに知っているニュースがなかったのです。
漫画の業界については気になるようなニュースも特に何もないと思っていたので。

それで実際面接になってみて、ニュースの項目については1つだけ聞かれました。それは、
「ゲーム業界のことについていろいろ書いているけど、ゲーム業界は受験しなかったんですか?」
というもので、それに対して私は、
「ゲーム業界もいろいろ受けましたが、応募する母集団が多すぎて途中から無理だと思うようになりました。それで、私はゲームを作る方ではなくてする方だな、と。」
と答えました。わりと面接官の反応は良かったです。
面接では他にHPのこともいろいろと聞かれました。
学生時代に力を入れたことはHPだけですし、以前にJustNetで波乗り賞を取ったこともあるので、それを売りにしようという考えもあったりしました。それで、履歴書や質問用紙にもそのことを強調して書いていました。
面接官にはHPを作ろうと思った理由、HPで扱っている内容などなどを聞かれました。
HPの内容は漫画やゲームのことなので下らない、と思われるかとも思いましたが、所有漫画が約2000冊あってそれを全てレビューしているとか、ゲーム100本以上持っているとか言ってしまうと、半端な数ではないので逆に感心されたりしてしまいました。
こういう話をしているとき、私は歯止めがきかなくなるので、面接官に話を止められて別の話題にされたこともありました。
結局、15分予定の面接が25分に延びて、結果として1次試験はパスしました。

その後2次面接を受けましたが、正直これは落ちると思いました。
面接室に入ったら煙草の匂いが結構強くて、面接官は煙草は吸っていなかったですけど雰囲気がすごく恐くて、その場でかなり萎縮していました。それに加えて、最後の質問のところで何か聞かなければな、と思っていたので思わず、
「説明会のときなどでは女性も男性と同じように勤められると聞きました。また、男女雇用機会均等法も改正されましたが、そのことについて上の方はどのように思っているのですか?」
などと、とんでもないことを口にしてしまいました。
それに関して、面接官の人たちは普通に答えてくれたのですが、これで落ちたと思いました。

が!!

その3日後。結果はこちらから問い合わせる形になっていたので、半ば諦め状態で電話してみたら内定だと言われて非常に驚きました。きっと2次面接は意思確認くらいなのかな、とも思いましたが、内定は内定だったのでとにかくうれしかったです。
ということで、ようやくここで就職活動を終えることができました。
推薦を受けての内定だったので、内定辞退は絶対にできないということもあり、内定が出た時点で就職決定、という流れでした。

こうして無事就職活動は幕を降ろしたわけですが、結局私は内定を合計で3つもらいました。
1つ目は就職先となった会社。高校、大学と女ばかりの環境にいましたが、この会社は9割近くが男性なので、我ながら極端な環境の中にばかりいるなぁと思いました。
2つ目は家から通える会社。ここの面接でも散々漫画とゲームのことを話して面接官に感心され、結構気に入ってもらえた場所でした。1つ目の場所が受からなかったら、ここに行きたかったです。
3つ目は家からものすごく遠くてしかも小さめの会社。ここは説明会のときに社長といろいろ話が出来て、社長も数学で教育実習をしていたということで話が合ってしまい、ほぼその場で内定が決まったという会社でした。雰囲気はすごく良かったので、どこも決まらなかったらここに行っていたと思います。

職種は全てSEでした。

最後に、就職活動を振り返ってみると、やっぱり面接は慣れだな、と思いました。
最初の頃は自分の思ったことも言えなかったですが、最後の方は言えるようになっていました。
また、面接も何となく受けるのではなくて、会社に入ったらやりたいこと、というのを予め決めていって、面接でそのことを言うと効果的だということもわかりました。例えば、就職先の会社では「製薬の安全性検査」という卒業研究で扱っている統計解析のような事業があったので、これがやりたいと言っていましたし、他の会社では「ネットワークを使った管理システム」が作りたいと言っていました。
女性でSEになりたいと言う人は大抵WordやExcelを使っていて興味を持った、くらいにしか面接でも話さないので、これくらい言えると1歩リードした感じになりました。
今更思えば、就職活動はいい人生経験になったと思います。
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就職活動日記~番外・教育実習編~ [エッセイ]

就職が決まらなくても、教育実習はやって来ます。
教育実習が始まる前には就職を決めておきたかったのですが、うまくいきませんでした。
ゼミの中で約半数は就職が決まって教育実習に入っていたので、それがとにかくうらやましかったです。
教育実習は出身中学に行ったのですが、これが私1人しか実習生がいなくていろいろ苦労しました。
誰か同級生が来ると思っていましたし(私が中学生のときは毎年3~4人来ていた)、そうでなくても短大に行った2歳年下の人とか、浪人した人とか、誰かはいると思っていました。

それがいない。

これだと就職状況を他の大学の人に聞くこともできず、休み時間も誰も話す人がいなく、いつ帰ればいいのかの判断もつきにくく、大変でした。1人でよかったことといえば、最終日に自分の判断でクッキー焼いて学校に持っていっても平気だったことくらいでしょうか。

教育実習中は最初の1週間でいろいろな授業を見て回り、次の1週間で授業をしました。
担当は1年生の数学でしたが、2~3年生の授業にも机間指導として入ることもありました。
これは、見学よりも、実際に授業している方が楽しかったです。だんだん生徒に対する遠慮も無くなりましたし、もともと声が大きいので生徒の評判も結構よかったです。
この実習期間で、生徒には散々、
「話すのが早過ぎる。」
と言われました。この癖は小学生時代から言われていたのですが(当時から早口言葉が得意だった)、言われなくなってずいぶんたっていたので、久しぶりに癖を思い出しました。
わりと楽しかった授業ですが、これをやるまでにはいろいろと準備が必要でした。
学生時代は先生方が自分のペースで何気なく授業を進めているように思っていましたが、実際はというと、1時間1時間指導計画というものを作って、1時間でどれくらい進めるかの他、板書計画や生徒の反応を予測したりして、それを紙に書かなければならないのです。
最初は進める感覚がわからなくて、1時間予定の授業が20分で終わって急遽その場で問題を考えたりもしました。
また、私は文字式の導入をやったのですが、私が当たり前にやってきたことも生徒たちはまだ知らないわけですし、理屈をすぐ理解できる生徒もいれば、出来ない生徒もいて、それを教えるのにも苦労しました。
例えば、「a円のノート5冊を買って、b円払ったときのお釣りは?」という問題では「a×5-b」と答える生徒がクラスの半分くらいいたりしましたし、「a×4」はもう当たり前に私は「4a」と書きますが、「×」を省略して数字を前に出すっていうのを教えても、「a4」と書く生徒も多かったです。
自分は感覚的にできたことを人に教えるのって難しいな、と改めて思いました。

実習を行った学校の先生については、基本的に皆さん優しく接してくれましたし、教育実習は全ての教師が通ってきた道でもありますから、温かい目で見てもらえていました。でも、正直なところ、かなりきつい先生(女)もいました。
言葉遣いとかは表面だけ取ればいい人なのかも知れないのですけど、そこかしこで、
「私って嫌われてる?(もしくは教育実習生そのものを迷惑がっている?)」
と思うことが結構ありました。こういう悪い予感というのは得てして当たるものなので、多分嫌われていたでしょう。
この先生、私が実習している期間で、結婚するということを発表していたのですが、
「こんな人と結婚するなんて、相手の人は一体何を(以下自主規制)」
などと思っていたりもしました。
まあ、これで人間関係の厳しさがわかったことはプラスだったと思います。

そんな教育実習期間でも、就職活動はしていました。
もちろん、企業を回ることはできません。夜中に企業のHPをまわって説明会の日程を調べたり、休み時間に抜け出して電話で説明会の予約を入れたり(学校が終わってからだと時間が遅くて予約出来ないから)などなどを、隠れてしていました。
実習期間というのは、たとえ教師になるつもりはなくても、教師になることを前提にしなければならないからです。教育実習期間中だけは、将来教師になるつもりで行け、と口酸っぱく言われていました。
とある学校では採用試験の願書のコピーを提出しなければならなかったといいます。
実習中の就職活動は、とにかくきつく止められていました。
実例として、実習期間と最終面接の日が重なって、その日の実習を休ませてくれと実習校に頼んだら、実習を中止させられた、というものもありました。そうはならなくても、実習校の態度がガラッと悪くなるのは間違いないと言われていました。

教育実習はかなりきつい日々でしたが、いい人生経験にはなりました。
実習を終えると、人間として少し成長した感じがしました。あくまで自分だけの感覚でしたが。
教職課程というのは、選択しなければならない科目も多く、事前指導でかなりの時間を費やさなければならないので、それ相応の覚悟がないと出来るものではありません。途中で挫折した人も結構いました。
それでも、やっただけの価値は出てくるものなので、経験してみるのもいいと思います。
こうして教育実習が終わり、私は再び就職活動に戻って行くのでした。
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就職活動日記~中期・絶望編~ [エッセイ]

筆記試験は通るけど、面接で片っ端から落とされることが続いていた就職活動前半戦。
それでも何度か面接をやるうちに、ちらほら一次面接が通るようになってきました。
面接のコツというのはよくわかりませんでしたが、とにかく面接官と話が弾めば通りやすい、という雰囲気だけはつかめました。
また、私は集団面接が苦手だということも同時にわかりました。
集団面接だと、自分の言おうとしていたことを隣の人に先に言われてしまったりだとか、しかもそれが自己アピールでの出来事だったとかで、言いたいこともろくにいえずに面接が終わってしまうこともよくありました。
私は自分で意思が強くて他人の意見には左右されない、と思っていましたが、面接では他人の意見に左右されっぱなしでした。人の話を聞いて、
「あ、そのことも言わなくちゃ。」
と思って、本来言うべきことを忘れてしまうことが多々ありました。
よって、通る面接は全て個人面接。しかも、1対1の面接がほとんどでした。
1対1だと言いたいことも言えて、向こうも相談する相手がいないので、こちらのペースに持っていけることも多かったのです。
そうして二次面接に進んだのが4社。だいたい二次面接が最終面接ですが、その最終面接まで進んだのも4社でした。
これだけあればどこかの会社に引っかかるだろうと思っていましたし、そうすれば教育実習前に就職を決めて晴れ晴れとした気持ちで実習が出来る、とも思っていました。

が!!

やはり世の中それほど甘いものではありませんでした。
教育実習前に最終面接に進んだところは全滅。
しかも、ゼミの仲間たちはどんどん就職が決まっていくので、焦りも加わってダブルパンチ。

では、どんな人たちが早々に内定を獲得していたかというと、銀行のSEとして採用されていた人たちでした。
そもそも、私の学校の同じ学科の人たちはSEとして採用されていましたが、そのほとんどは銀行のSEでした。当時はいわゆる”腰掛け”と言われるものに近く、総合職ながらも5年勤めて寿退社、というのが定番として噂されていました。
そのため、銀行も女子大からかなりの数の女性SEを採用していました。某銀行では私の学校から採用する枠を毎年設けていて、同じ学科からかなりの数その銀行に就職していくほどでした。数学専攻57人のうち少なくとも9人はその銀行に就職が決まっていました。聞いたところによると、説明会に行きさえすれば採用するとか、しないとか。
(銀行系を実際受けなかったので、本当のところは結局わからなかったのですが)
就職が早く決まっていく人たちは大抵銀行のSEで、そうでない場合は推薦を使った人がほとんどでした。
銀行は不景気でもわりと就職が決まりやすい、という現状がありました。

しかし!!

私は銀行には行きたくありませんでした。もちろん、銀行系のシステム会社も。
結構いい給料が出るという話は聞くものの、数年後に辞めることが前提の会社には行きたくなかったのです。説明会ではそんなことはないように言われても、現実は現実で違うという話も聞きました。
少なくとも、銀行でない方が長く勤められる可能性もある、と考えていました。
長く勤めようと思えば公務員だけど、それを諦めたならせめて長く勤められるところがいい、と。
それなので、銀行系を全て避けていた私はあえなく全滅を食らってしまっていました。
就職が決まっていく人たちを見ながら、私も銀行にすればよかったかと迷ったり、成績順で就職決まらないものなのかと妙な部分で嘆いてみたりもしました。
次第にダイレクトメールも届かなくなって、絶望の淵に追いやられたりもしました。
でも、やっぱりちゃんと自分の行きたいところを見つけないと、と思い直すようにもしました。
結局は、教育実習中は就職活動は出来ませんから、教育実習が終わったら一から出直しだな、ということになりました。全滅した分、教育実習には力を入れないといけないな、ともまた考えていました。
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